川越唐人揃い2011
第7回復活!唐人揃い─朝鮮通信使─
多文化共生・国際交流パレード

争わず、学び、助け合った歴史を現代によみがえらせたい。

江戸時代は「鎖国」ではなかった!

よく江戸時代は「鎖国」の時代といわれます。これは正しくはありません。1635年の海外渡航禁止令などを「鎖国令」と呼ぶこともありますが、幕府の通達文書には一度も「鎖国」という言葉は使われていないのです。中国・オランダは「通商の国」と呼び貿易を、朝鮮は「通信の国」と呼んで正式な国交を行っていました。

徳川家康は出兵せず!

豊臣秀吉は全国統一の後、突如朝鮮を侵略し(文禄・慶長の役1592−98)おびただしい被害をあたえ、日本に数万の人々を拉致連行しました。徳川家康は最初からこの侵略には反対の意志を持ち、結局一人の兵も朝鮮には送りませんでした。天下を握った家康は、日本の平和は東アジアの平和なくして実現しないと考え、朝鮮との国交回復に最大の努力をしました。武将が連行してきた朝鮮人を返還させたり、戦後処理は誠意を持って行った結果、国交は回復しました。

現代に通じる国際外交

外交の基本方針は「善隣友好」でした。朝鮮との窓口である対馬に仕えた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、外交の基本を「欺(あざむ)かず、争わず、真実をもって交わること(誠信の交)」とし、さらに、自国の考え方や見方で他国を見て判断することは間違いであると指摘しています。これは現代の国際外交でも通じる精神です。

江戸最大の文化イベント「朝鮮通信使」

朝鮮王国と国交回復した1607年から1811年まで友好親善の証しとして、将軍襲名などの時に「朝鮮通信使」が招かれました。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」という意味です。400〜500人の大文化使節団で、学問・文化芸術の第一人者が半年かけてソウルから江戸に来ました。それはとても華やかな大イベントで、宿泊の各地で民間交流が盛んに行われました。この朝鮮通信使の行列があまりに華やかだったので、踊りや行列が各地域の祭りなどに模倣されたり、踊り子の人形などが全国で作られました。

「唐人揃い」

江戸時代の川越氷川祭礼では、とくに朝鮮通信使の仮装行列の「唐人揃い」と呼ばれる練り物が人気でした。「唐人」とは「唐=中国」ではなく、外国を意味する言葉として使われています。川越の縞木綿「唐桟(とうざん)」も同じ使い方です。「唐人揃い」の様子は『氷川祭礼絵巻』の中で本町(現元町一丁目)の町人たちが楽しげに行っているのがみられます。

江戸時代に国際的助け合い!

3月11日におきた東日本大震災は、未曾有の被害をもたらしています。この事態に、世界中の国から日本に対する支援・応援がなされました。本当に嬉しいことです。
人々の病を救うために
江戸時代の人々が苦しんだものは「病気」でした。当時、漢医学の先進地が朝鮮でした。本家の中国でも絶賛された許淩(ホジュン)の『東医宝鑑』という書物が将軍吉宗にもたらされ、その研究を通じて日本の漢医学が大きく進歩し、人々を救いました。
最大の災害は飢饉
飢饉の度に多くの人々が餓死しました。これを救ったのが南米原産のサツマイモで、「琉球」から薩摩藩に伝えられ、1732年の享保の大飢饉の時にはサツマイモが栽培されていた西日本地域だけが救われたことから、徳川吉宗が青木昆陽に、関東でも栽培する方法を研究させた(1734)結果、関東一帯、川越は一大生産地となったのです。
大飢饉で苦しむ朝鮮の人々を救う
サツマイモのことが通信使を通じて知らされ、ぜひともこの種イモと栽培方法を教えて欲しいとの申し入れがあり、1763年に対馬から伝えられました。飢饉で苦しむ人々が救われたと、当時の朝鮮側の記録に残って感謝されています。これこそ、平和な交流の中で行われた「国際支援」といっても、過言ではありません。

榎本弥左衛門

川越の豪商。新河岸川の舟運を利用し、塩の仲買人の榎本家をさらに大きくした四代目。『榎本弥左衛門覚書』という貴重な日記を残し、明暦元年(1655)に江戸へ来た第六回の朝鮮通信使を見物したことをこまかく記録するとともに、華やかな行列の感動を川越の町人たちに伝えました。

多文化共生・国際交流パレード

2005年「日韓友情年」に、江戸時代の「唐人揃い」を多文化共生・国際交流パレードとして現代に復活させました。第7回目になる今年は、ソウルから自転車で通信使の道を走って川越に来るなど、多彩な行事が予定されています。
このパレードは趣旨に賛同した個人・団体が民族衣装やパフォーマンスでパレードを盛り上げます。川越町人の進取と友好親善の精神を受けついだこのパレードを歴史ある蔵造りの町並みでお楽しみください。